有名人のお墓

No.05

  (1885〜1966)
『在野精神を貫いた日本画家』
場所 和歌山市小人町南ノ丁3-1
浄土宗 西岸寺内
 

 日本画家。明治18年6月、呉服商を営む川端信吉の長男として、和歌山市本町3丁目で生まれる。本名は昇太郎。明治28年、一家で上京し、浅草、日本橋に住む。東京第三中学校四年生の時、読売新聞社が『明治三十年画史』を企画して一般から絵を募集したが、これに応募した「西南戦争」「大観艦式」の二図が大家に伍して入選する。明治37年(1904)太平洋画会、白馬会にそれぞれ入会して画道に精進した。間もなく国民新聞社に入社し挿絵などを担当する。
 大正2年(1913)洋画研究のためアメリカ各地を巡歴し、ボストン美術館で見た東洋芸術の美しさに心を打たれたのが動機となり、帰国後は日本画に転じた。大正5年、第三回院展に樗牛賞をうけ、美術院同人に推され、大正6年「二荒山縁起」を発表、昭和3年(1928)日本美術院を離れ、翌年青龍社を創立して主催することになる。青龍社第一回展に「鴨川」「六曲屏風」を出陳し、昭和10年に帝国芸術院会員になったが、翌年辞退。昭和12年、再度帝国芸術院会員に推されたが、改組に伴う政治的空気を嫌って辞退。昭和15年(1940)新京特別市(現、長春)の懇請によって新京美術院に招聘されて美術指導にあたり、昭和20年、新京芸術学院長に就任したが、終戦のため帰国。
 作品は大作が多いが、「寝釈迦」「猪苗代湖」「小鍛冶」「金閣再現」など有名で、東京浅草寺の大天井画、大阪四天王寺講堂の大壁画もよく知られている。昭和34年(1959)、文化勲章を授章し、37年龍子記念館を開設、鉄筋二階建ての全館に主要自作品を展示する。41年、和歌山市名誉市民の称号を贈られる。昭和41年4月没。80歳。龍子は金力、権力にこびることを何よりも嫌って反抗心が強く、生涯強い在野精神に一貫した人であった。


川端龍子




川端龍子の墓

西岸寺

 

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