ひと味違うぼけよけ地蔵尊の二十四霊場

 「子ども叱るな、われ来た道じや、年寄りいたわれ、われ行く道じや」
 お釈迦様は三世因果の道をお説きになった。「親の因果が子に報い。」ということばがある。この因果を断ち切る道、それは仏道への精進以外にはあり得ない。仏道への精進とは、仏像にすがり、よき縁を持たせて頂くようにすることである。
 一定の条件で一定の結果が出る物の世界とは異なったいのちの世界は、因と縁とによって動いている。一般にはこれを因縁と言う。よき縁を頂けば悪因も善果となることは珍しくない。
 老人性痴呆症、いわゆる老人ボケなるものは、今もって原因も治療法も定かではない。ならば仏像にすがるより仕方がないという事であろう。その縁を結んで頂くためにこの二十四霊場が生まれた。
 だからと言って老人だけが参る霊場ではない。わが行く道に光を見出し、老いも若きも生きるよろこびと生命力を取り戻すご縁を頂く霊場である。
 ほとけ様の美人コンクールをすれば観音様が一番であろうか。力くらべをすれば不動明王をはじめとする明王部や天部のほとけ様が優勝なさるに違いない。だが人気投票をすればお地蔵様に軍配があがるのではなかろうか。
 「富士の白雪やノーエ・・・・・・」で始まるノーエ節では、お地蔵さんの丸い頭にカラスが止まるというユーモラスな場面が歌われている。如来様の場合は畏れ多くて、こんなにくだけて戯画化するわけにはいくまい。八月の地蔵盆は、どの地方でも子どもたちの楽しい行事の一つになっている。野辺に建てられている石仏をみれば、そのほとんどがお地蔵様なのだ。たくさんのほとけ様の中で丸坊主姿はお地蔵さんだけである。余り飾り物を身につけられず、簡単な僧衣をまとっておられるだけである。威厳をあらわすために、獅子や象にもお乗りになることはない。
 つまり、一切の虚飾を捨てて、裸で私たちとつき合ってやろうとなさるほとけ様である。しかも、万物を育む大地の徳を持っておられる生命力の根源だから地の蔵と申し上げる。ボケるという事は生命機能の退化だから、やっぱりお地蔵さんにすがるのがよかろう。このお地蔵さんと遊ぶつもりで二十四霊場を巡拝される事をおすすめしたい。
 この霊場はひと味もふた味も違う霊場である。老夫婦を足下において、数珠をもさぐっておられる同型同大のお地蔵さんが二十四ヶ寺に祀られてある。みんな御本尊を祀ってある本堂の外にある。いわばボケよけ祈願の為に、お地蔵さんがそれぞれのご本尊に対し、皆様に先き立って協力を求めに歩いておられるのだ。
 どの寺も小さな佗びた寺ばかりである。文化財と称するほとけ様のなきがらを売り物にしている寺は一つもない。
 京都の観光税問題や、高野山の一住職が多大の負債を抱えて寺宝を売るなどという事が大きく報じられていた時である。
 お大師様が夢枕に立たれた。錫杖でなく一升びんをぶら下げて・・・「おい、一ぱいやらんか。」と、大きな盃になみなみとついで下さった。思わず合掌する私に、「そう固くなるな、昨今は世間を騒がす坊さんが多くなり、寺や坊さんのイメージも地に落ちた。誠に残念な事である。だが地方にはまだまだ道心堅固な弟子どもがおってくれるに違いないと思って山をおりて来た。しっかり頼むぞ。」と、おっしゃった。
 この夢の感激さめやらぬ時に、ぼけよけ霊場を作ろうではないかという呼びかけがあった。そして、三宗五派の寺院二十四ヶ寺が集まったのである。宗派は違ってもみほとけのご誓願を伝える覚悟にかわりはない。
 だから、どの寺へ行っても、お参りする人々は手を合せて迎えて頂けるであろう。湯茶の接待も頂ける。時間があれば求めずとも法話を頂ける。そのお話を聞くと、不思議と暖かいみほとけの心が伝わって、かわいた心にうるおいがよみがえるであろう。うるおいがなければいのちは育たない。機械化され、数量化され、物質化されつつある現代社会に生きる人々のオアシスがそこにある。
 お参りする人とは、この霊場の納経帳を持って、二十四ヶ寺を巡拝してなさる人の事である。